1.時代に向き合う
2011年3月11日の東日本大震災と福島原発事故によって、私たちは改めて身に迫る「近代文明の危機」を感じました。草木で染めて、手機で織るということも、自然そのものがなくなっては存続できません。大いなる自然とともにあるこの営みを次世代に残すために、私たちに何ができるか考える中で、社会に開かれた芸術教育の場を作りたいという考えが生まれました。それから2年後、2013年4月、京都に芸術学校・アルスシムラが設立されました。
2.柳宗悦の民藝運動と志村ふくみ
アルスシムラの源流は、民藝運動を主導した柳宗悦らが京都につくった上加茂民藝協団にまで遡ります。そこで小野豊は染織家の青田五良から糸を紡ぐこと、草木で染めること、地機で織ることなど、染織の手ほどきを受けました。そして、1927年に滋賀県初の私立小学校となる昭和学園の設立に協力し、芸術教育を志しました。
豊の娘であった志村ふくみは、32歳のときに染織の道に入りました。柳宗悦の『工藝の道』を紬織の思想の原点とし、黒田辰秋、富本憲吉、上村六郎らの助言と指導を受けながら制作を続け、紬織の染織家としての地位を確立しました。植物染料で絹糸を染め、手機で織るという手法を守りつつも、民藝の枠を超えて自らの内面世界を織り込んだ着物を制作していったことは、当時としては画期的なことでした。モチーフは、故郷である琵琶湖や工房のある嵯峨野の風景、『万葉集』・『枕草子』・『源氏物語』・『古今和歌集』などの古典文学、カンディンスキーやクレーの抽象画など、多岐にわたります。従来、紬織は普段着としてみられていましたが、そこに独自の世界観と美的感性を持ち込むことによって、工芸と芸術を融合した紬織の作風を完成させました。
ふくみの母・小野豊
昭和学園
滋賀県近江八幡の工房で染織を始めた頃
3.西洋の色彩論と志村洋子
志村洋子は、天体の運行や月の満ち欠けに従って行う藍建てに強く心をひかれて染織の道に入り、母・ふくみの技術と思想を継承しながらも、キリスト教芸術、イスラム教芸術などをモチーフにした独自の芸術世界を創り出しました。また、ドイツの文学者ゲーテ、思想家ルドルフ・シュタイナーらの色彩論も学び、東洋と西洋の違いを超えた普遍的な「色」という美を目指しています。1989年にふくみとともに、都機工房を設立し、日本伝統の着物という枠を超えて、文化・芸術・思想を総合的に学び、表現しています。
ゲーテの『色彩論』から示唆をえた、染め糸による《糸の色彩環》
(志村ふくみ・志村洋子)
4.アルスシムラ
アルスシムラでは、芸術家は特別な才能にめぐまれた人しかなれないのでなく、一人一人が芸術家たりうると考えています。草木染め、平織は複雑なシンプルな技術であるからこそその人の感性や思想がそのまま反映されます。よい作品を制作するためには技術の習得だけでなく、つねに自然に寄り添い、自然と対話し、想像力を養わなければなりません。糸を紡ぐ、草木で染める、手機で織る、着物をまとう、語り伝えるという、太古から連綿と続いている営みを学びつつ、現代に生きる私たちがそうした営みをどのように継承し、自然と人間の共生できる未来を作っていくのか、考えていきたいと思っています。それが「近代文明の危機」への私たちなりの取り組みなのです。
志村ふくみ《秋霞》
志村洋子《聖クララ》